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キルギスでキリギリス探してみた

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「キルギスといえば……キリギリス、とか?」

【キルギスでキリギリス探してみた】

 勢いで口にした瞬間、自分の愚かさに顔が赤くなった。30代も半ばを過ぎた成人男子が口にするにはためらうべき発言であった。昼下がりの編集部。テーブルを挟む形でお互いパソコンのキーボードをパチパチ叩きながら、編集長と打ち合わせをしていた。「今度キルギスへ行くんですけど」僕が言うと、旅好きの編集長は「じゃあ、せっかくなので何か書いてよ」と目を輝かせた。書くのはいいとしても、何かフックが欲しい。いい切り口がないか思案した結果出たのが冒頭の発言というわけだ。

 仮にも仕事の打ち合わせである。我ながら、お寒いダジャレだと思う。ところが、僕が自分の失言に猛省しかけた刹那、編集長のキーボードを叩く手が止まった。続いて返ってきたK氏の台詞に、僕は耳を疑ったのだった。

「それ、いいんじゃない」

 ――えっ、いいの? うーん、ノリが良すぎるぞ。自ら提案しておきながら僕は狼狽えてしまった。そんなこちらの気も知らずか、「キルギスにもキリギリスはいるのかなあ?」などと編集長が遠い目をしている。いるのだろうか。実に素朴な疑問である。「探してきましょうか?」僕はおそるおそる言った。「探してきてよ」と編集長は表情を変えず即答した。かくして、キルギスでキリギリスを探すという暴挙に挑むことになったのであった。

 キルギスへ行く、そう友人・知人に告げると、「キ、キルギス?」とみな一様に微妙な反応だった。「どこにあるんだっけ?」と質問で返してくれるケースはまだマシな方で、中には困惑した様子を見せる人もいたほどだ。これがハワイや香港であれば、彼らの食いつき具合もまた違ったものになるのだろう。想像も付かない場所だけに、話のとっかかりが見つからないのだと思う。かくいう僕自身も、いざ訪れることが決まるまでは、まるでイメージが湧かない国だった。

 まず簡単に予習してみた。キルギスはかつて旧ソ連を構成していた国の1つで、エリアとしては中央アジアに位置する。国境の南東部を中国と接しているほか、同じく旧ソ連から独立したカザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタンといった国々に囲まれている。中央アジアの国々は「〜スタン」と付く名前が多く、個人的には密かに「スタン系」などと親しみを込めて呼んでいるのだが、キルギスも以前は「キルギスタン」と称していたのだそうだ。

 外務省のサイトによると、面積は19万8500平方キロで日本の約2分の1、人口はわずか540万人となっている。中央アジア自体、他の地域と比べるとただでさえ情報が少ないのに加え、キルギスとなるとさらに情報が限られる。例えばグーグルで「ウズベキスタン」を検索した結果が約695万件なのに対し、「キルギス」だと約39万7000件しかヒットしない。おおよそ17分の1である。旅行で訪れる人も少ないのだろう。唯一とも言える日本語のガイドブック「地球の歩き方 中央アジア」においても、キルギスに割かれたページ数は寂しい限りだ。

ここにあります

 ともかく、一言でいえば「謎の国」なのであった。正直、キリギリスどころではない。何があるのか、サッパリ分からないのだ。実はたまたま義父が、仕事で首都ビシュケクに駐在していたのが今回の訪問の直接のきっかけであった。事前にメールをやり取りする中で、「ところで、キリギリスはいますか?」と書こうとしたが、思いとどまった。義父は冗談の通じるタイプだが、さすがに久々に会う娘の旦那の発言としては不適切すぎるだろうと、ぎりぎりのところで理性が働いたのだった。

 日本からはソウルで飛行機を乗り継いで、隣国カザフスタンのアルマティに入った。アルマティからビシュケクまでは約240キロ。マルシュルートカと呼ばれる乗合のミニバスに乗って国境を越えた。ロシアやトルコ経由ならば空路で直接ビシュケクへアクセスも可能だが、乗り継ぎ時間が合わず料金も割高だったので、あえて陸路で訪れることにしたのだ。

 誤解を恐れずに書くと、旧ソ連と聞いて身構える気持ちは少なからずあった。かつて訪れた社会主義的な国々の旅では、いろいろと苦い思い出もある。特に国境は鬼門で、こちらに何ら非がなくとも油断はできない。運が悪いと賄賂をせびられる、などという噂もちらほら耳にする。内心ビクビクしながら入国審査の列に並んだのだが、結果的には過剰な心配であった。拍子抜けするほどに、アッサリと入国できてしまったのだ。

 キルギスに着いてまず最初に驚いたことを書くと、この国は中央アジアの中でも屈指の親日国なのだそうだ。日本人のパスポートであれば、入国に際しビザは不要である。それも、目的や滞在日数を問わずビザが要らないという(60日以上の滞在の場合、現地にて登録は必要)。この点、中央アジアの他の国々と事情が異なる。例えば今回ついでに訪れたカザフスタンなどは、渡航前に大使館できちんとビザを取得しなければならない。また他の諸外国籍の多くはキルギス入国へあたってビザが必要であることからも、日本人が特別優遇されていると言えるだろう。

 国境を越えたら街路樹の緑が目につくようになったのも、ささやかな発見だった。旧ソ連の街というのは、それとすぐに分かる特徴がある。だだっ広い道路にスクエアなビル、そしてこれ見よがしにあちこちに国旗が掲揚されている街並みを過去に何度か経験してきた。街の設計自体が、我々の発想とどこか違う。旧ソ連ではないが、北京あたりを想像して頂ければイメージが湧くかもしれない。ワンブロックだからと歩き始めたら、いつまでも目的地に辿り着けず、地図で縮尺を確認しなかった過ちを呪いたくなるような、規格外のスケール感とでも言えばよいだろうか。

 その意味でいえば、キルギスの首都ビシュケクは趣が少し異なる印象を受けた。道の広さや無機質な建物こそソ連を感じさせるが、目に映る風景はどこか優しい。それは街路樹の緑のせいだけではないと、追って気がつくことになるのだが、まずはキリギリスである。安請け合いしてしまったものの、率直なところ、暗闇の中で落としたコンタクトレンズを探すような心境であった。まるでアテがないのだ。

 ぶらぶらと街歩きをしながら、僕は積極的に視線を下方に送るようにしていた。綺麗に整備された植え込みには、真っ赤なバラや、名も知らないビビッドな色調の花々が咲き乱れている。それらを写真に収めるついでに、それとなく地面に目を向ける。キリギリスはおろか、動くものは何ひとつ見当たらない。一国の首都としては「田舎」としか形容のしようがない、のんびりしたところではあるが、仮にも近代的な「街」である。考えたら、東京で昆虫を探してなかなか出合えないのと状況はさして変わりない。早くも白旗を揚げたくなってきたのだった。

 街ゆく若者たちは垢抜けて見えた。広過ぎる道路を円滑に渡るためなのか、交差点のある道路の下には通路を兼ねた地下街が発達しているのだが、入口の一番目立つところには携帯電話会社の大きな広告看板が掲げられている。街角で最新のスマートフォンをいじっているような、日本と何ら変わらない光景にも目を瞬かせた。彼らに訊いてみるのもひとつの手かもしれない。「キリギリス、知りませんか?」――いささか勇気の要る質問である。けれど仮に勇気があったとしても、それは困難なミッションと言えた。

 キルギスはロシア語圏である。公用語としてはこの国独自の言葉もあるが、看板の文字などは基本ロシア語のようだった。旧ソ連の旅となると毎度そうなのだが、とりわけ大変なのが言葉の問題だった。英語の通用度が恐ろしく低いのだ。なかば予想していたことだが、やはり話しかけても要領を得ない。ロシア語なんて、「ハラショー」や「スパシーバ」ぐらいしか知らない身としては、赤子になったようなもどかしさが募るのだった。

 とはいえ、単純なコミュニケーション程度であれば、ロシア語など分からずとも案外なんとかなってしまう。カザフスタンからローカルの移動手段で国境を越えてキルギスへやってきたが、まるで言葉が通じないにもかかわらず、何ら不都合はなかった。人々はみなおおらかで、非常にフレンドリーな印象だった。困ってオロオロしていると、誰かが「あそこへ行けばいい」などと救いの手を差し伸べてくれるのだ。そうでなかったとしても、観光して、食事をして、買い物をするぐらいなら、実際には言葉の壁なんてあってないようなものだろう。

 しかし探し物となると、話は違ってくる。途端にハードルが高くなり、僕は天を仰ぐしかなかった。持参したロシア語の会話帳の索引をチェックしたが、キリギリスのロシア語訳なんて載っていない。もしかしたら写真のひとつでも用意してくるべきだったのかもしれないが、旅立ちに浮かれていた頭には、そんなナイスなアイデアが過ぎるわけもなく……ああ、困った。

 翌日、無事に合流を果たした義父は休みを取ってくれていて、一緒に車で出かけることになった。ちなみに依然としてなお、義父にはキリギリスの話は言えず終いであった。探すのをあきらめたわけではないが、そればかりに気を取られるのも本末転倒だ。滅多に来られないような土地なのだから、純粋に旅そのものを楽しみたい。

 向かった先はアラ・アルチャという自然公園だ。ハイキングをしようという話だったが、行ってみるとハイキングというよりも、少しだけ本格的な山歩きという感じであった。トレッキングといった方が似つかわしいかもしれない。

 「地球の歩き方」には、上高地のようなところだと書かれている。山々に囲まれた気持ちの良いスポットで、自然公園と聞いてイメージしていたよりも、ずっと野生味溢れるシチュエーションに心が躍った。文明を感じさせる要素は限りなくゼロに近い。携帯の電波も当然のように圏外である。

 車を停め歩き始めると、最初こそ簡易的な小径が整備されていたものの、すぐに道なき道に変わった。そのうち、地面さえもない場所を通過しなければならなくなった。川に沿う形で上流へと高度を上げていくのだが、その川を歩いて越えるという。水深は浅いが、流れは結構早い。水面からかろうじて頭を出している、やや大きめの石を足場に選びながら、飛び移るようにして渡る。足を置いた瞬間に石がグラッとして、靴底がまんまと水に浸かった。義父は靴と靴下を脱ぎ、素足で歩を進めていた。その方が正解であった。結局、靴の中まで水浸しになり、その後の足取りが重くなってしまったのだった。

 水に濡れた足が凍ったように冷たかった。緯度でいえば、函館と同じぐらいのところに位置するのだ。訪れた時は9月下旬で、アラ・アルチャではすでに紅葉が始まっていた。陽が出るとそれほどでもないが、寒くないというと嘘になる。中には早くも冠雪している山も見えた。天山山脈である。山に分け入っていくと、時折野性の馬の群れに出くわしたりもした。雪山をバックに、毛並みのいいたてがみが風に揺らめくさまは、とても絵になる。ここは首都ビシュケクからわずか30キロほどの距離しかない。まさに街の郊外といったところなのだが、これほどの手つかずの自然が広がっているなんて驚きだったし、うらやましくもあった。

 僕は、昨日キルギスに到着して感じた、旧ソ連の街にしてはやけにほんわかとした優しげな雰囲気が漂う理由に思い至った。街からちょっと出ると、心が洗われるような自然が待っているのだ。美しい風景と共存する街は、やはり美しい。行き交う人々が優しげなオーラを身にまとうのも必然なのかもしれない。後で知ったことだが、この国は「中央アジアのスイス」などとも呼ばれているのだそうだ。スイスには行ったことがないので比較はできないが、キルギス、とってもいい国だなあと、しみじみと感慨に浸ったのだった。

 慣れない山歩きに、運動不足の身体が悲鳴を上げた。その都度、岩肌にドカッと腰を下ろして休息するような、スローペースのトレッキングとなった。持参した水をごくごく飲んで一息ついている時のことだった。足元の叢をぴょんと何かが横切った。えっ? 虚を衝かれ、目を見開いた先には……黄緑色の昆虫らしき物体が、いた。キ、キリギリス! まさか、まさかである。

 逃げられないように、おずおずとカメラを茂みに向けた。まずは遠目からパチリと一枚。さらに少し近づくと、そいつはぴょんと飛び上がった。負けじと追いかけシャッターを切る。草がジャマでなかなかうまく撮れない。一進一退の攻防が続いたが、やがてそいつはまんまと茂みの外へ飛び出てきた。絶好のチャンス到来! 僕の興奮は頂点に達した。ところが、その姿を的確に捉えた次の瞬間、大きな落胆に変わった。これ、キリギリスじゃない? バッタ目ではあるけども。果たしてそれが何だったのかは定かでないが、少なくともキリギリスではなかった。

 冷静になって振り返ると、アホらしくて恥ずかしくなる顛末である。驚喜しながら地面にカメラを向ける僕を、なにも言わず見守っていてくれた義父の温かさも身に染みた。結局キリギリスには出会えないまま、キルギスを後にする日がやってきた。帰国して編集長に「バッタはいましたが……」とメールを送ると、「勝ったも同然ですな」との謎の返信が届いた。これを「同然」と言っていいものかしばし逡巡したが、大真面目に悩むのも馬鹿馬鹿しいことにすぐに気がついた。こうなったらとことん開き直ってしまおうと意を決し、乱暴気味に書きつづったのがこの原稿なのであった。見苦しい駄文、どうかご容赦のほど。

結論:キルギスにはキリギリスはいないかもしれないけどバッタっぽいのはいる!

●筆者略歴

吉田友和(よしだともかず)

旅行作家。二度の世界一周のほか、これまでに約80ヶ国を訪問。雑誌等への寄稿および記事監修のほか、編集者として旅行ガイドの制作なども手がける。本記事で取り上げたキルギスのような、こだわりの旅先を紹介する新刊『めざせ!プチ秘境』(角川書店)を11月末に刊行予定。ほかにも『自分を探さない旅』(平凡社)など著書多数。

・著者サイト:tomotrip


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